人生の大いなるともしび(其の2)

(6月1日・其の1より続)

  そんな時、自己啓発本を読みあさってみたり、占いに頼ってみたり、神仏に願ってみるなど、こちらから光を掴もう掴もうと必死になるかもしれません。

 阿弥陀さまの光は、私の闇を破り、照らし支えてくださると親鸞さまは味わってゆかれました。
 その光はこちらから掴んでいくものではなく、反対にこちらの思い計らいを捨て、阿弥陀さまの願いに静かに耳を傾けていくときに、その光に照らされ、包まれていることに気づかされていきます。

 浄土真宗でいう信心とは、こちらが懸命に信じたから救われていく教えではなく、阿弥陀さまの願いを聞き開かれていくものをいいます。
 そのことを大阪の山本仏骨(ぷっこつ)師(1910~1991年)は、今月の法語にあるように、「信心ということは、仏さまの光に照らされて私の心に明りがつくことだというように味わうと、一ばん有難いんですよ。」と味わってゆかれました。

 明りがつくとは、そこにぬくもりが生まれることでしょう。ぬくもりが生まれると、いのちが育まれていくことでしょう。
 阿弥陀さまの光に照らされ、包まれ、私たちは仏の子としてのあたたかないのち育まれていきます。そのいのちは、死で終わっていくいのちでなく、仏として生まれていくいのちでありました。