鏡に映らざる私

 朝起きて鏡を見る。なんとも眠そうな顔で、目やになどがひどく、とても人前に出られそうにない。
 顔を洗い、歯を磨く。これで少しは人前に出ても恥ずかしくはないだろう。朝食を取り、着替えを済ませ、玄関で靴を履く。

 ふと玄関の鏡に映る自分のシャツに、値札が付いているのを見つける。危ない、人前で恥をかくところだった。
 外見は鏡に映る。どうとでも直すことができる。
 では中身、私の心はどうだろうか。

 仏法という心を映す鏡の前に立った時に、私の心が映し出される。
 私の都合で物を計り、あれはいい、これは好かん。時に腹を立て、愚痴を言う。その本性が私であった。

 生かされていることも気づかず、いのちの尊さにも見向きもせず、恥を恥ともしらず、なんと恥ずかしいことであったか。

 その私を救おうと、はたらき続けているのが阿弥陀如来であった。

 「仏法からいかに自分が遠くあるかと、我が身を深く悲しむ心に仏法のことばが響くのであって、自分は何でも知っていると思いあがっている人はより仏法から遠くなる。」

今月法語・宮城顗(みやぎ しずか)氏

 むさぼり、怒りに振り回され、日々忙しく過ごす私の姿。
 いのち終えていかなければならないという現実、病を背負う現実。

 その現実に、安心して任せよと響く阿弥陀如来のことばがありました。