どこまでもわたしとともに (其の2)

(2月1日・其の1より続)

 第四夫人に尋ねると「常にあなたと一緒です。だから、どこまでもお供します。」と答えました。
 それを聞いてほっとするとともに、このものをもっと大切にすべきだったと深い後悔の念におそわれたそうです。

 男とは「私」のことを喩えられ、第一夫人とは私の肉体です。いつも可愛がりいたわっていても死ねば別れるのです。

 第二夫人は財産や地位や名誉です。これらも、もっていくこともできません。

 第三夫人とは家族や親族、友達です。お互いに親しみ、離れがたいお互いです。墓場までは見送ってはくれますが、それまでですね。

 第四夫人は、私の「心」や「業」といわれます。
「業」とは、身体で行う行為(身業)、話す行為(口業)、そして私が心で思う行為(意業)です。私のいのちそのものといってもよいでしょうか。

 親鸞聖人は、善導大師のお言葉

 「『自身は 現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし』と信ず。
 二つには決定して深く、『かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に 乗じて、定んで往生を得』と信ず。」

(観経疏/教行信証)

とあじわわれました。

 業に縛られ、生死の迷いの身であることをも知らず、混とんと生きている私のいのちのすがたをめあてとして、常にこの私に行じてくださっている南无阿弥陀佛は私の業を転じ、いつでも、どんな時でも離れず寄り添っていてくださいます。