恥ずべし 傷むべし (其の2)

(11月1日・其の1より続)
 大切な人を失い嘆き、涙を流し悲しむ人々から目をそむけ、自らの“正しさ”や“正義”を貫くことを第一とすることが、果たして本当の正しさといえるのでしょうか。

 また、無理な開発により、木々を切り倒し、田畑をつぶし、生き物の住処を奪っていくことが本当の豊かさでしょうか。
 親鸞聖人が慕われた中国の曇鸞大師(476—542年)は、
 

「顛倒の善果よく梵行を壊す」

 
 自分で「善」と考える結果が得られたとしても、それは本当の善とは真逆のものであり、清浄なる行為を破壊してしまうことになるのです。

 と示されました。

 私はいつでも間違いはないと思っていて、宗教や仏教にたよらなくても、問題なく暮らしているという思い。
 先祖さんも大事なので毎日仏壇に手を合わせ、盆や正月など墓も参っている、周りの人にも良いことを行っているし、世間に対しても義理事は果たしているという思い。

 仏法に照らされるとき、それらは逆さまであるというのです。結局は自分に執着していることであり、本願、仏の智慧と慈悲を受け入れることのない「私の心に囚われた善」であるというのです。

 私たちは、人や他のいのちの縁起(つながり)の中を生かされています。その姿に気づかされるとき、「私が正しい」「我が、我が」の姿が、恥ずべき事であった。
 傷むべきことであったと手が合わさり、頭が下がる姿が恵まれていくことではなかったでしょうか。