当たり前ではなかった

 このあいだ年が明けたと思いきや、もう師走に入りました。
 歳末の慌ただしさ、新年を迎える準備の喧騒や賑わいなどを感じさせるこの頃です。

 そして、私は、「暖かくなったら部屋を片付けよう、今まで溜まってきた書類なども断捨離して、すっきりとしょう、来年からぼちぼちとしていったらいい」と思いながら、今年も何も片付いていないまま過ぎ去ってしまったという後悔の念にとらわれ、「今迄何をしていたのだろう」と不足や愚痴が出てしまう月です。

 そのうち お金がたまったら 
 そのうち 家でも建てたら 
 そのうち 子どもから手が放れたら
 そのうち 仕事が落ちついたら 
 そのうち 時間のゆとりができたら  
  そのうち・・・、そのうち・・・そのうち・・・ 
 と、できない理由を くりかえしているうちに結局は何もやらなかった。

 空しい人生の幕がおりて 顔の上に淋しい墓標が立つ 
 そのうちそのうち日が暮れる いまきたこの道 かえれない

<出典/相田みつお「そのうち」>

と、相田みつをさんの詩があります。

 私の姿を言い当てられた厳しい指摘を感じると共に、だから今できることを始める、行動に移すことが大切なのだと心を動かされます。

 言葉、詩、願いなどを “聞き受ける”ということは、その行動や、姿勢、態度に現れます。
 感動すれば、涙が流れ、尊いものにあえば頭が下がります。感謝の思いが受け取れるならば「ありがとう」と言葉に出ます。
 また、反対に姿勢、態度の中から気づかされることもあるのかも知れません。

 手を合わせて、「いただきます」と幼い頃から食事の折には合掌していましたが、「何でこんなことをするのか」と思っていました。
 後になって、食べることは様々の“いのち”をいただいていること、いのちの犠牲の上に私のいのちが成り立っているから、「ありがとう」の感謝と「ごめんなさい」の懺悔の姿が合掌であると聞かせていただきました。

 食べることが当たり前と思っていたことが「ああ、そうだったんだ」と驚きを感じます。
 そして今、仏さまの前に座って手を合わせ、お念仏申している自分がいます。

 私がこちらからお参りしている、拝んでいると思っていましたが、そこには、如来の大いなるはたらき(他力)があるのだと、様々のお育てをいただく中に聞かせていただきました。
 お念仏が申されることは、いつでもどこでも「そのまますくう」と私をつつみ込んでくださる阿弥陀如来のお慈悲の真っ只中なのです。