真実の利
先日ご法事で、ご主人の赴任先のラオスより帰国、お参りされた方にお話を伺いました。
ラオスは、自らが出家して仏道を修行して悟りに至る上座部仏教の国です。
毎日朝早くから托鉢に廻られる僧侶に布施をするために食事を作り、花、お金、ごはん、お菓子、果物などを喜捨するそうです。
出家できない人は、こうして徳を積むのだといわれます。
ラオスではもち米が主食になることが多く、日本人の集まる所では時々餅つきもされるようです。
また、お寺の行事に参拝するなど仏教を中心とした生活がある中、ご主人も昨年お母さまがご逝去され、剃髪して一週間ほど出家されたそうです。
自らが出家することにより、お母さんへの功徳となるといわれます。中には、数か月やそのまま修行僧になる方もおられるなどお話を聞かせていただきました。
それぞれにある文化や教えを敬いながら、私も浄土真宗のみ教えを正しく受け止めてまいりたいことを思いました。
宗教ということが国会議員との関係などでまた問題となっています。
そのようなことが起こるたび宗教は怖い、関わらない方がよいと思われる方も多くありますし、被害にあい、もうこりごりとおっしゃる方もおられます。
学校で宗教について学ぶことは少なく、道徳さえ習えば人の道との感もあります。
しかし、宗教は自分のいのちの問題、心の問題です。
生きることは、喜びと悲しみ、苦難と快楽、幸せと不幸せ、憎しみと慈しみ、健康と病気、栄華と没落、快調と不調、生と死、邂逅と別離、順境と逆境、善と悪、満足と不満、明と暗、光と闇などは、紙の裏表のように常に変化しながら私に迫って来ます。
だから、不安や怖れを免れたい、少しでも安心を感じていたいという観念でまじないや、占い、パワースポットが気になってしまいます。
そうなると、お祓いや、壺や掛け軸に行ってしまうこととなるのでしょう。
本来宗教は、教えを宗(むね)とし、依り所となって、生きてはたらく姿をあらわすものですから、自分も周りも心豊かにならなくては宗教ではないはずです。
『仏説無量寿経』には
「如来、無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。」
(如来はこの上ない慈悲の心で迷いの世界をお哀れみになる。世にお出ましになるわけは、仏の教えを説き述べて人々を救い、まことの利益を恵みたいとお考えになるからである。『浄土三部経(現代語版)』)
と、お示しくださっています。
私が抱えている、いやすべてのいのちの抱えている苦しみ悲しみに寄り添い、真実にしあわせと生きる道を示すためにお釈迦さまがこの世に出られ、阿弥陀仏の本願による拯(すく)いがすでにこの私を目当てとして、とどいていてくださってありました。
私が、なんまんだぶ なんまんだぶとみ名を称えるままに、今ここに、常にご一緒の如来さまであります。
「安かりし 今日の一日(ひとひ)を 喜びて み仏(おや)の前に ぬかずきまつる」
(「礼讃歌」大谷姙子様)