「いのち」の在り様と「老・病・死」
「あと、何度この花を見ることができるやろか」、四季折々に彩る花を見ながら、ふとつぶやかれる言葉を何人かから聞きました。
季節の移り変わりに咲く花は、それぞれ精一杯そのいのちを咲かせている。それを見ている私は、段々と年を重ね、老いていくことを実感していかなくてはならないのです。
普段は体力に自信があっても病床に横たわる時など、何が悪かったのかな、ちょっと食べすぎたのか、不摂生が続いたな、何処でこんな病気になったのか、とその時に考えることもあります。
また、「誰だれさんが亡くなった」と聞き、葬儀に参列する時、「何があったのか、あゝ無常なこと」とその死を悼むことも多々あります。いずれは自分にもその日が来ることであると感じながらも「まだもう少し先、大丈夫、大丈夫」と言い聞かせることも少なくはないでしょう。
前門さまが『教書』のなかで、
「宗教は、人間のかかえている究極的な問題、すなわち、老病死の苦悩の解決にかかわるものであります。釈尊が出家される機縁となったのも、その問題であり、老病死が迫っていることに気付く時、人間は、今ここに生きていることの意味を問わずにはおれません。
この問題を解決しようとするところに、宗教の根本的な意義があります。」 (1980年4月1日)
とお示しくださったことをあらためて、深く味わいます。
今を生きること、「いのち」の在り様を「老・病・死」が絶えず問いかけてくる。
真宗僧侶二階堂行邦さん(1930~2013年)の言葉、今月の法語(トップページに掲載)をあなたは、どう聞き、どう受け止められましたでしょうか。。