私の日常のすがたを聞く
梯 實圓先生の今月の法語(トップページに掲載)「念仏者の人生は まさに慙愧と歓喜の交錯」について一講しますと、中国の善導大師は
「経教(きょうきょう)はこれを喩(たと)ふるに鏡のごとし。しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧を開発す」
(『観経疏』序分義)
と示されました。
鏡を見れば鏡に映る我が姿が明らかになるように、お経に顕された佛法の教えは、私の心の内面までもありのままに映し出すとともに、如来さまの智慧にめざめ、生きていく方向性がうまれる、と教えてくださるのです。
真実に映し出される私は、真実の心も無い、自我にとらわれ、煩悩に振り回されてしか生きることのできない「お恥ずかしい、申し訳ない」我が姿に気づかされるのです。
そして、そのままを目当てとし、包み、常に認め寄り添い、導いてくださる如来さまに「もったいないことです、ありがたいことです」と頭が下がるのでしょう。
法語に、
”法(みのり)をきく身となるまでは 己が心の愚かさを 知らず我こそ善人と思いあがっていたけれど だんだんお聞かせいただいて 仏の光に照らされて 気づいてみれば恥ずかしい
光の内にありながらおかげ知らずに愚痴小言 我が身勝手を棚に上げ 人の落ち度や粗探し 余所の秘密を聞きたがり 言うなと聞けば言いたがる 少しのことを恩に着せ 受けたご恩は忘れがち ほんに愚かな愚かなこの私
地獄必定(ひつじょう)の私を 見抜いてすくうの 大誓願(だいせいがん)”
と、私の日常のすがたを聞かせていただいています。