言うは後なり(其の1)
友人と食事をしていた際、「やみつき!当店イチオシ!旨辛カレー!」の文字につられて、おすすめの旨辛カレーを注文。
目の前に、真っ赤なカレーが運ばれてきます。
スプーンでカレーを一口頬張ると、スパイシーな風味と、具材の旨味が口の中に広がり、「ああ、カラい」と思わず口から言葉がこぼれます。
体が火照り、どっと汗が噴き出て、直ぐに水を流し込みますが、それでもまだなお、辛い。
こうなっては、食べ進めるよりほかはありません。「ああ、カラい、カラい」と言いながらなんとか完食したものであります。
大阪の利井鮮明(かがいせんみょう)というお坊さんは、「ああ辛(から)と、言うは後なり唐辛子」という詩を残されたそうです。
阿弥陀如来という仏さまは「南無阿弥陀仏」の言葉の仏、声となる仏となって、私に至り届き、私に満ち満ちて、私のこの口から「南無阿弥陀仏」の声となって出てくださる仏となってくださいました。
この口から、「南無阿弥陀仏」とお念仏こぼれ出るのは、すでに阿弥陀さまのはたらきが、私に満ちている証拠であります。
阿弥陀さまに願う前から、私を願い、はたらき続けている阿弥陀さまの先手のお救いを、利井鮮明師は「言うは後なり」と味あわれたのでしょう。
南無阿弥陀仏と称えたらどんないいことあるのか、それがはっきりと納得できたら称えてみようなど、私たちの関心は、いつも自分の都合のいい結果が生まれるかどうなのか。
損するか、得をするのかを“わたしの都合の物差し”で測っていきます。