住職一問一答

 今回のコラムは、Y.I様より
 「浄土真宗での、ご先祖様について教えてください。」
と、このホームページ宛にいただきましたメールでの質問についてお答えしたいと思います。

 
 お世話になっております。
 浄土真宗では先祖供養をしたり、お盆にご先祖さまが帰ってくることはないと伺います。

 これは、ご先祖さまは阿弥陀さまのもとでいつも見守っていてくれるから、先祖供養をしたりお盆にご先祖さまが帰ってくるという考えはないということでしょうか?

 お経に関しても供養ではなく、いつも守っていただいているご先祖さまに感謝をするためにお経を唱えるということでしょうか?
浄土真宗では先祖供養をしないといっても、常にご先祖に守っていただいてると感じ、ご先祖さまに感謝をするというふうな信仰と捉えてよいのでしょうか?

 教えていただけると助かります。
 よろしくお願い致します。 

 という内容です。

 整理してみましょう。

1、 先祖とは
2、 供養とは
3、 お経とは
4、 浄土真宗とは
5、 感謝とは
6、 見守るとは
これらを順にご説明します。

1、先祖とは 
 相田みつをさん(書家・詩人)のあじわいに「いのちのバトン」という詩があります。原文はインターネット等で閲覧できますので、この詩を要約すると、

 「『私』があるのは父母~その両父母(両祖父母)~またその両父母・・・と、人数が2、4、8・・・と増えて行き、20代遡ると100万人を超え、無量の命が受け継がれた結果です。」
 というものです。

 不思議なことですね、私がここに存在するのはたくさんの「いのちのであい」の中ですね。
 であればどこをもって「先祖」といえるのでしょうか。一人ひとりさまざまな境界で「であい」「ご縁」がありますね。

 私の「いのちのであい」を例にしますと、父と母、父方の祖夫・祖母でも実の祖母は父が9才の折に逝去し、再婚しましたから義理の祖母と出会いました。
 また、母方の祖父母は出会いましたが祖母は私の幼い頃に逝去しましたので、先程の詩から言えば父と母で2人、父と母の両親で5人となります。
 その前はといえば、父方の祖母を鑑みても枝分かれしていくと誰が誰かわからなくなります。
 3代さかのぼるだけでややこしいですね。

 私たちは実際にであった方々を先祖とよぶことが多いですが、先祖というその概念もわからないことです。
 日本も様々な民族があり、さかのぼれば、ネアンデルタール人?類人猿?それ以前は・・・思いも及ばないことです。
 


 
 2、供養とは
 本来の供養は仏陀や菩薩にお敬いの心をもって布施をすることをいわれます。
 経典では浄土の諸仏、諸菩薩が互いに仏を供養することであると示されます。

 しかし、われわれ凡夫は本来、仏さまの尊さも解からないし、思いも及びません。ですから供養することは不可能といえるでしょう。

 ただ経典でなされていることをまねて、花を供えたり、お香を供えたり、果物や食べ物を供えることを一般に「供養」と言っていますが、人間にできる所作ではありません。
 


 
 3、お経とは
 2,500年前ともいわれますが、ヒマラヤの麓、シャカ族にゴータマシッダルタという王子が誕生しました。後のお釈迦さまです。
 35才で悟りを開かれ仏陀(真理に目覚めた方)とよばれました。梵天(インドの神をつかさどる)の勧請により、その人その人にあわせて法を説いていかれました。

 一人ひとりの悩み苦しみに対して説かれた説法ですから、八万千の法門(煩悩の数ほどある)といわれます。
 その他、仏陀の教化により、お弟子や尊敬される方々など有縁に対してのご説法をされていかれました。

 しかし80才にてこの世の縁が尽き涅槃、真のさとりの世界へとご往生されました。
 その後弟子の聖者たちが、釈尊(お釈迦さま)の教えが間違って伝わってはいけないとの観点から、集い合い、編集されること(結集)となり、木版に文字として顕されました。これが『経典』です。

 『経』は縦糸を示す言葉、仏さまから私に説かれた言葉、説法なのです。ですから、お経の始めは「如是我聞」(このように聞かせていただいています)なのです。
 亡くなった方や先祖に聞かせるというお経はこの世に存在しません。
 ただ中国でできたお経(偽経)もあるようでから、そういったものから先祖崇拝とつながったのかも知れません。

 また、後には釈尊のお心はこうであったと真意を顕したお経が編纂されました。
 大乗敎といわれるご説法で、阿弥陀如来の救いについて説かれた教説です。

 これが「浄土三部経」と総称される『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』で浄土教での依り所とするご説法で、お経は生きている者に説かれた説法です。
 


 
 4、浄土真宗とは
 法然聖人(1133~1212年)という方が出られ阿弥陀仏のすくいを「選択本願」であると示され、誰のいのちにも救いはとどいている。
 それが「南無阿弥陀佛」という念佛と現れてくださってある。

 誰もがすくわれる道は唯念佛であるのだと『選択本願念佛集』を顕され一宗を開かれました。それを「浄土宗」といいます。

 当時はその教えは異端とみられていました。何故なら日本に伝えられた仏教は鎮護国家のためであり、仏道修行をしてお釈迦さまと同じようなさとりに趣いていこうということが仏教であったのです。

 しかし聖人は、今は末法の世であり、仏道修行でさとりに趣くものはないとそれを否定され、唯念仏による救いを説いてゆかれました。
 だから、他宗より誤解や迫害を受けることとなったのです。(念仏停止承元の法難)

 法然聖人没後も迫害は収まらず、また様々な見解により念仏の教えが分派されていきます。法然聖人の真意は阿弥陀如来の本願のすくいであり、そのすくいが南無阿弥陀佛と私に現れ出ていてくださるのです。

 如来は修行も出来ないこの煩悩具足の凡夫をめあてとして
 「われにまかせよ必ずすくう。あなたをおさめ取って捨てない。あなたを浄土に生まれさせ仏のさとりを開かせる」

と、わたしに常によびかけ、わたしのいのちに来てくださる。
 だから「如来」(真如より来る)といい、それを「他力本願」というのです。

 如来の無条件のすくいであると、弟子の親鸞聖人が様々の経典や高僧方の釈門をひもとき『顕浄土真実教行証文類』に顕されました。

 いわば浄土のすくいのはたらき(敎)が、南无阿弥陀佛という声(行)となり、私のいのちにとどき(信心)、念仏(信行)と出てくださり、私をさとりの境地である浄土に生まれさせ、仏とならしむる(証) のです。
 また、その浄土も真実の報土と仮の仮土があることを顕されました。

 親鸞聖人の顕された、教えを聞き、集いあうサンガの輪が広がりが「浄土真宗」という一宗が出来、一宗を開いた方を御開山とお慕いして、教えを依り所としていきました。
 したがって浄土真宗とは『選択本願』のことです。

 仏教とは、仏陀の教えであり仏となる教えです。
 先祖になる教えなら先祖教というのでしょうか、この私煩悩の中にしか生きていけず、その中にいることさえも知らなかった私に、阿弥陀如来(佛)は目覚めさせ、浄土へといざなうすくいが南无阿弥陀佛としあがり、私を供養してくださるのです。

 親鸞聖人の法語を後に唯円というお弟子がまとめた『歎異抄』第5章には

 親鸞は父母の孝養のためにとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわずそのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。

 いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。

 ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦ににしずめりとも、神通力をもって、まず有縁を度すべきなりと云々。

 訳:私、親鸞は亡き父母の追善供養のためといって、一度も念仏申したことはいまだかつて無いのです。
 なぜならば、一切の生きとし生けるものは全て、いくたびも生まれかわったりしながら永い時を経ては、父母兄弟姉妹となることもあったでしょう。

 しかし、今阿弥陀如来の本願のすくいにより、誰もが浄土に往き生まれ仏(真実に目覚めた者)になって、今度は全てを助けるのです。自分の力をもって励む善ならば、その念仏を振り向けて父母を助けることもできるでしょうが、そんな力は私には無いのです。

 わが身や心、自分の力をたのむ(依り所)とするのではなく、そのようなあり様を捨てて、南无阿弥陀佛によって浄土で仏とならせていただくならば、広大な悟りを開き、人間の迷い、苦悩に沈んでいる者も自由自在に救いとる、真実の法のはたらきをもって、まず、身近な縁あるものを救いたいと知らせていただいています。

と示されました。
 


 
5、感謝とは
 誰かに感謝すること、感謝の思いを持つことは大切なことでありましょう。
 しかし、気持ちに余裕が出来れば感謝の心が出てくることでしょうが、ふだんは何事も当たり前、逆に私の思い道理にならなければ、不平不満、怒りや、嫉妬や、妬みのこころ、自分にとらわれる「我執」のこころしか持ち合わせていないと気づかされます。

 また、わたしのこころは末通るものではありません。感謝することは難しいですね。
 


 
6、見守るとは
 仏さま、菩薩さま、神さま、仮に先祖が見守ると天や何処からか見守っていてくださると世間では表現しますが、親鸞聖人が『現世利益和讃』をうたわれました。

 まもるとは、「護る」いざない、信心・念仏を守護してくださっているという標記です。わたしにつねに、はたらきかけてくださっているのです。
 


 
 以上、雑としたことで、誠に申し訳ございません。
 可能であれば、京都本願寺、別院、近くの真宗のお寺にお参りなされ、ご聴聞、肌で感じてください。
 いまでは、インターネット動画の配信も多々あります。(中には親鸞聖人の教えといいながら異なるものもありますのでご注意ください。)

 どうぞ仏縁を大切に、くれぐれもご自愛くださいますよう。

南无阿弥陀佛 お称名   

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 ご質問へのお答えはこのようなところとなります。

 このように、当寺HPを閲覧いただいた皆様からの仏教、浄土真宗についてや、仏事のこと、そもそもお寺って?などなど、疑問・ご質問、お便りお待ちしております。

 Y.I様、ご質問ならびに当寺HP閲覧まことにありがとうございました。
 今回はどちらにお住まいの方と存じ上げるに至りませんが、小さくともご縁であります。お近くにお越しの機会でもあれば、お気軽に当寺へお立ち寄りください。
 今後とも宜しくお願い申し上げます。